鎌倉時代「太平記」に書かれた「無礼講」の語源とは・・・?

Posted by marui on 2018年12月12日

忘年会のシーズンですな~。そこでよく使われる言葉が「無礼講(ぶれいこう)」という言葉です。

 

この「無礼講」という言葉、地位や身分の上下を取り払い楽しむ宴会・酒会の事を指します。だからって、セクハラして

 

いわけではありません。「無礼をしても構わない」と意味ではなく、あまり身分の差にとらわれず常識の範囲内で宴会を

 

楽しみましょう。という意味です。

 

では、この「無礼講」という言葉はいつ頃から使われ始めたのでしょう?

 

日本は古来から神に奉納した御神酒を、参った人もいただく神人共食の儀式を「礼講」と言いました。時は鎌倉時代、後

 

醍醐天皇が討幕を図り、密議のために身分を超えた宴席を設けました。それが、「無礼講」です。

 

しかもその言葉は、ここ東濃地方の歴史と深い関係があり、「太平記」に書かれています。

 

「太平記」を要約しますと、

 

討幕の志士を集めた日野資朝は、各々の真意を確かめるためにあることを企画します。

 

そのころ美濃に、土岐頼貞、多治見国長というものがあった。(ここですぞ~、ポイントは・・・。)

 

どちらも清和源氏の子孫で武勇の誉れが高かったので、日野資朝は様々な縁を探って接近し、朋友の約束はいよいよ浅く

 

ないものになった。しかし、幕府を倒すという計画をたやすく打ち明けるのも気が引け、相手の真の心を確かめるために

 

「無礼講」という宴を企画したのであった。集まる人は、尹師賢、四条隆資、桐院実世、日野俊基、伊達遊雅、足助重成、

 

多治見国長たちでした。

 

その宴の様子は見聞きした人々を驚かせた。身分の上下を無視して盃をやり取りし、男は鳥帽子を脱いで髪をむき出しに

 

し、法師は黒衣を脱いで白衣の下着姿になった。山海の珍味が取り揃えられ、美酒は泉のようにたたえられ、十七・八の

 

特に美しく清らかな少女を二十人あまり、薄い単だけを身に着けた姿で酌をさせ、その雪のような肌が透けて見える様子

 

は、まるで太液池の蓮が水から出たようでした。皆舞い踊り、幕府を滅ぼす手立てを考えた。

 

その後、討幕計画が六波羅探題の検知され、土岐一族は追い打ちを受け、最後は自害することとなります。

 

多治見国長の遺跡は、多治見の銀座通り商店街にありますし、土岐頼貞の父土岐頼定は、現在の土岐市泉町定林寺に「瑞雲

 

山定林寺」を建立したり、頼貞は、多治見市の虎渓山・永保寺や本土神社とも関係が深く、瑞浪市土岐町に墓があります。

 

東濃地方と関係の深い「無礼講」という言葉ですが、お隣瑞浪市の元市会議員・井澤やすき氏は、ジャズミュージシャンの

 

日野皓正氏と土岐英二氏を招き、「無礼講ライブ」なども行っています。

 

 

One Response to 鎌倉時代「太平記」に書かれた「無礼講」の語源とは・・・?

  1. はち太郎

    いつも楽しく拝見していました。
    最近更新がなく寂しく思っております。
    新しい記事お待ちしております。

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